江戸時代の葬式服装について、現代の私たちから見ると想像がつかない部分も多いのではないでしょうか。
一体、故人はどのような装いをしていたのか、そして参列する人々はどんな服装で故人を見送ったのか。
時代劇などで断片的に見かけることはあっても、その全体像や背景にある意味までを知る機会は少ないかもしれません。
現代では当たり前となっている「喪服」という特定の服装は、江戸時代にも存在したのでしょうか?それとも、身分や地域によって全く異なる習慣があったのでしょうか?この記事では、そんな江戸時代の葬式服装にまつわる疑問に、当時の風俗や文化を紐解きながら深く迫っていきます。
現代の葬儀とは大きく異なる、江戸時代ならではの服装のルールやそこに込められた人々の想いを知ることで、当時の死生観や社会の仕組みがより鮮明に見えてくるはずです。
さあ、江戸時代の葬儀の世界へタイムスリップしてみましょう。
江戸時代の葬式における「喪服」の考え方
現代の葬儀において、喪服は参列者全員が着用する特定の服装として定着しています。
しかし、江戸時代には現代のような統一された「喪服」という概念は存在しませんでした。
もちろん、故人を悼み、喪に服すという気持ちを表すための服装はありましたが、それは身分や立場、そして時代によって大きく異なっていたのです。
特に江戸時代初期から中期にかけては、特定の「喪服」というよりも、普段着の中でも地味な色合いのものを選んで着用することが一般的でした。
これは、慶事の華やかな装いとは対照的に、悲しみを表すために派手な色や柄を避け、質素な装いを心がけるという心構えが重視されていたためです。
しかし、時代が下るにつれて、特に武士階級の間では、一定の形式に則った服装が見られるようになります。
例えば、武士が正装として用いる裃(かみしも)を、地味な色合いにして葬儀に着用するといった例もありました。
これは、武家社会における礼儀や格式を重んじる文化が、葬儀の場にも反映された結果と言えるでしょう。
一方、町人や農民といった庶民の間では、より実用的で普段の生活に近い服装が主流でした。
特別な喪服を仕立てる経済的な余裕がないという事情もありましたが、それ以上に、日々の暮らしの中で故人を偲び、地域共同体として葬儀を行うという意識が強かったため、仰々しい服装よりも、故人への哀悼の意を静かに表せる、地味で清潔な服装が選ばれたのです。
このように、江戸時代の葬式における服装は、現代のように「喪服」という単一の言葉で括れるものではなく、多様な社会構造や文化が反映された、より自由で、かつ身分によって厳格なルールが存在する複雑なものでした。
身分や立場によって異なった服装
江戸時代は厳格な身分制度が敷かれていたため、葬儀における服装も身分によって明確な違いが見られました。
最も形式が重んじられたのは武士階級です。
武士は普段から礼儀作法や格式を重んじる生活を送っており、それは葬儀の場でも同様でした。
彼らは、正式な場での装いである裃を着用することがありました。
ただし、慶事用の華やかな色柄ではなく、地味な色、例えば黒や紺、鼠色などの無地のものが選ばれたと考えられています。
これは、武士にとって葬儀もまた重要な儀礼であり、身分にふさわしい威儀を保ちつつ、故人を悼む気持ちを表すための服装だったからです。
また、武士の妻や娘といった女性たちも、地味な色合いの着物を着用しました。
派手な柄や明るい色は避けられ、控えめな装いが求められました。
一方、町人や農民といった庶民の服装は、武士階級ほど厳格な形式はありませんでした。
彼らは特別な「喪服」を仕立てることは稀で、持っている着物の中で最も地味なもの、例えば木綿や麻などの素材でできた、紺や茶、鼠色といった落ち着いた色合いの着物を選んで着用しました。
これは、当時の庶民にとって着物は非常に高価な財産であり、葬儀のために特別なものを準備することが難しかったという経済的な理由もありますが、それ以上に、日々の生活の中で故人との別れを受け止め、地味な服装でつつましく哀悼の意を表すという庶民的な感覚が強かったためと考えられます。
特に農村部では、普段着に近い服装で葬儀が行われることも珍しくありませんでした。
遺族は参列者よりもさらに地味な装いを心がけ、悲しみを深く表すことが求められました。
このように、江戸時代の葬儀服装は、身分という社会構造がそのまま反映された、多様な様相を呈していたのです。
喪の色は白?黒?時代による変化
現代の喪服の色といえば「黒」が一般的ですが、江戸時代の葬儀における「喪の色」は、現代とは大きく異なっていました。
江戸時代初期から中期にかけて、喪の色として主流だったのは「白」でした。
これは、神道の考え方や古来からの日本の習俗に由来すると考えられています。
白は清浄や無垢を象徴する色であり、死によって穢れを祓い、清らかな姿で旅立つ故人、そして故人を見送る側もまた清らかな心で臨むという意味が込められていました。
また、白は「非日常」の色でもあり、日常の生活から離れて死という厳粛な出来事に向き合う姿勢を表す色でもありました。
当時の文献や絵図などを見ると、特に故人が身につける死装束は全身白一色であることが多く、参列者も白に近い色や、白と地味な色を組み合わせた装いをすることが見られます。
しかし、江戸時代後期になると、徐々に「黒」が喪の色として認識され始める兆しが見え始めます。
これは、中国から伝わった儒教の影響や、欧米の文化が少しずつ流入し始めたことなどが複合的に影響したと考えられます。
中国では古くから黒が喪の色とされており、その影響が日本の知識人や一部の階級に及んだ可能性があります。
また、当時の染色の技術では、純粋な黒を出すのが非常に難しく、高価な色であったため、黒い着物は特別なものとして扱われました。
黒を着用することは、故人への深い悲しみや敬意を表す、より改まった装いと見なされるようになったのです。
ただし、江戸時代を通じて完全に黒が主流になったわけではなく、白や鼠色、藍色といった地味な色が広く用いられていました。
特に庶民の間では、普段着の色合いから大きく外れない、地味な色が引き続き選ばれていました。
黒が日本の喪の色として広く定着するのは、明治時代以降、欧米の文化が本格的に導入されてからのことです。
江戸時代は、白から黒へと喪の色が移り変わる、過渡期とも言える時代だったのです。
故人が旅立つための「死装束」とは
江戸時代の葬儀において、故人が身につける「死装束」は、現代のそれと同様に非常に重要な意味を持っていました。
死装束は、故人がこの世での生を終え、あの世へと旅立つための特別な衣装であり、単なる衣服という以上の、宗教的、象徴的な意味合いが強く込められていました。
当時の人々は、死を「旅立ち」と捉え、死装束はその旅路のための準備と考えたのです。
一般的に用いられたのは、経帷子(きょうかたびら)と呼ばれる白い単衣(ひとえ)の着物でした。
この経帷子には、仏教の経文が書かれていることもあり、故人が無事に極楽浄土へ辿り着けるように、あるいは悪霊から身を守れるようにという願いが込められていました。
経帷子の他にも、故人は様々な旅支度を身につけました。
例えば、頭には天冠(てんかん)と呼ばれる三角形の白い布をつけ、これは仏様になるための印であるとか、死後の世界での位を表すといった意味があるとされました。
手には手甲(てっこう)、足には脚絆(きゃはん)をつけ、これは長い旅路を歩くための装備と考えられました。
腰には六文銭を入れた頭陀袋(ずだぶくろ)を提げました。
この六文銭は、三途の川を渡るための渡し賃であるという説が一般的ですが、地域によっては別の意味合いを持つ場合もありました。
また、手には数珠を持たせたり、鎌や杖を持たせる地域もありました。
これらの持ち物もまた、死後の旅路での様々な困難を乗り越えるためのお守りや道具として考えられていました。
死装束は、故人の身分や性別に関わらず、基本的に共通の様式が用いられましたが、地域や宗派、あるいは家々の慣習によって、細部に違いが見られることもありました。
例えば、経帷子に書かれる経文の種類が異なったり、頭陀袋に入れるものが六文銭以外にも含まれたりするなど、多様な風習が存在したのです。
死装束は、故人が安らかにあの世へ旅立てるようにという、残された人々の切なる願いが込められた、神聖な装いでした。
白装束に込められた意味と具体的な装い
故人が身につける死装束の最も特徴的な点は、その色が「白」であることです。
この白という色には、深い意味が込められていました。
まず、白は「清浄」「無垢」を象徴する色です。
故人が生前の穢れを全て清め、清らかな魂となって仏様のもとへ向かうという意味合いが込められています。
また、白は「死」を象徴する色でもあり、現世との別れ、そして非日常への移行を表す色でもありました。
さらに、白は仏教において修行僧が身につける色でもあり、故人が仏の弟子となって修行の旅に出るという解釈もなされました。
具体的な白装束の装いは、一般的に「経帷子(きょうかたびら)」と呼ばれる白い単衣の着物が中心となります。
この経帷子は、生きた人間が着るものとは異なり、縫い方が独特であったり、返し縫いをしないといった特徴が見られることもありました。
これは、「この世に戻ってこない」という願いや、死後の世界での滞りをなくすための工夫とも言われます。
経帷子の上に羽織るものとして、同じく白い帯を締め、その上に頭陀袋を提げます。
頭陀袋には、三途の川の渡し賃とされる六文銭を入れるのが一般的でした。
頭には三角形の白い布である「天冠(てんかん)」をつけます。
これは、地域によっては「宝冠」とも呼ばれ、故人が仏様になるための印や、死後の世界での位を表すものとされました。
手には白い手甲(てっこう)、足には白い脚絆(きゃはん)をつけ、足元は白い足袋を履き、草履を履かせます。
これらは全て、長い旅路を歩くための旅支度と考えられました。
手には数珠を持たせたり、杖や鎌を持たせる地域もありました。
これらの具体的な装いの全てに、故人が無事にあの世へ旅立ち、安らかに眠れるようにという、遺族や関係者の願いが込められていたのです。
白装束は単なる衣服ではなく、故人を仏の世界へ送り出すための、神聖な儀礼の一部として捉えられていました。
地域や宗派に見られる死装束の多様性
江戸時代の死装束は、基本的な様式として白装束が用いられましたが、日本各地の地域や、信仰する宗派によって、細部に多様な違いが見られました。
これは、各地に根付いた独自の風習や信仰が、死という出来事に対する考え方や儀礼に影響を与えていたためです。
例えば、経帷子に書かれる経文の種類は、宗派によって異なる場合がありました。
特定の宗派で重要視される経典の一部が書かれたり、宗派独自の文言が加えられたりしました。
また、頭陀袋に入れるものも、地域によっては六文銭だけでなく、故人が生前大切にしていたものの一部や、旅路で必要とされると考えられた品物(例:道中のお守り、少量の米など)を納める慣習も見られました。
これは、その地域の人々が考える「あの世への旅立ち」の具体的なイメージが、死装束の細部に反映された結果と言えます。
さらに、死装束の着せ方や、納棺する際の故人の体勢にも、地域や宗派による違いが見られました。
例えば、経帷子の合わせを左前にするか右前にするか(通常、生きた人間は右前ですが、死装束は左前にすることが多い)、帯の結び方、手甲や脚絆のつけ方など、細かな部分にそれぞれの地域の習俗が表れていました。
また、故人の手に持たせるものも多様でした。
一般的に数珠を持たせるのが多いですが、地域によっては鎌を持たせることで「迷わずあの世へ進む」「悪縁を断ち切る」といった意味を込めたり、杖を持たせることで「旅路の助けとする」といった意味を込めたりしました。
これらの違いは、文字として記録に残っているものだけでなく、各地域の古老の言い伝えや、代々受け継がれてきた慣習として伝わっているものも多く存在します。
これらの多様な死装束の風習は、当時の人々が死後の世界や故人への思いを、いかに具体的な形で表現しようとしていたかを示しており、それぞれの地域に根差した深い信仰心や共同体の結びつきを感じさせます。
現代の統一された死装束からは想像もつかない、江戸時代の豊かな死生観がそこにはあったのです。
参列者の服装と現代との違い
江戸時代の葬儀に参列する人々の服装は、現代のように「喪服」として特定の形式が決まっているわけではありませんでした。
むしろ、「地味であること」「慎み深い装いであること」が最も重要な要素でした。
これは、派手な色や柄の着物は慶事や日常の華やかな場面で着用するものであり、悲しみの場である葬儀にはふさわしくないと考えられたためです。
参列者は、自分が持っている着物の中で、最も落ち着いた色合いや柄の少ないものを選んで着用しました。
紺、茶、鼠色、藍色といった地味な色が好まれ、素材も木綿や麻といった普段着に近いものが一般的でした。
絹のような光沢のある素材や、華やかな刺繍や染めが施された着物は避けられました。
アクセサリーや装飾品も控えめにし、髪型も派手な結い方ではなく、シンプルにまとめることが求められました。
これは、故人への哀悼の意を表すとともに、遺族に配慮し、悲しみに寄り添うという心構えが服装に表れたものです。
現代の喪服が、改まった礼服として位置づけられ、特定のデザインや色、素材が定められているのとは対照的です。
現代の喪服は、社会的なマナーとして統一された形式が重視されますが、江戸時代の参列者の服装は、個人の持つ着物の中から「ふさわしいもの」を選ぶという、より柔軟なものでした。
もちろん、武士階級など一部の層では、ある程度の形式は存在しましたが、庶民の間では、経済的な事情も相まって、普段着の延長線上で地味な装いをすることが主流でした。
現代のように、葬儀のために専用の喪服を仕立てたり、レンタルしたりするという習慣は一般的ではありませんでした。
当時の人々にとって、葬儀は地域共同体の一員として故人を見送る行事であり、服装もまた、その共同体の一員として故人や遺族への敬意と哀悼の気持ちを表すための手段だったのです。
庶民は何を着て葬儀に参列したのか
江戸時代の庶民、特に町人や農民が葬儀に参列する際の服装は、現代の私たちの感覚からすると非常にシンプルでした。
特別な「喪服」を仕立てるという習慣は一般的ではなく、彼らが持っている普段着の中から、最も地味で落ち着いた色合いの着物を選んで着用しました。
具体的には、紺色、茶色、鼠色、藍色といった、目立たない色が好まれました。
素材も、高価な絹ではなく、木綿や麻といった、日々の生活で着用しているものが中心でした。
柄も、派手なものや華やかな吉祥柄などは避けられ、無地に近いものや、控えめな絣(かすり)や縞(しま)などが選ばれました。
女性の場合は、明るい色の帯や、華やかな髪飾りなどはつけず、地味な帯を締め、髪もシンプルにまとめることが一般的でした。
化粧も控えめにし、装飾品はほとんど身につけませんでした。
これは、葬儀という悲しみの場において、自分自身を目立たせることを避け、故人への哀悼と遺族への配慮を最優先するという、当時の人々の謙虚な心構えが表れたものです。
また、当時の庶民にとって着物は高価なものであり、何着も持つことは難しかったため、普段着を使い回すという現実的な理由もありました。
しかし、単に経済的な理由だけでなく、葬儀の場においては、華美な装いを慎み、質素な服装で故人を偲ぶことが美徳とされていたという文化的背景も大きく影響しています。
地域の葬儀は、村や近所の人々が協力して行う共同体の行事としての側面が強く、参列者もまた、その一員として故人を静かに見送る姿勢が求められました。
特別な装いをすることよりも、故人を悼む気持ちや、遺族に寄り添う気持ちを大切にした結果、普段着の中でも最も地味な服装が選ばれたと考えられます。
このように、江戸時代の庶民の葬儀服装は、現代のような特定の形式にとらわれず、当時の社会状況や文化、そして人々の素朴な心根が反映されたものでした。
現代の喪服との決定的な違いと当時の心構え
江戸時代の葬儀服装と現代の喪服との間には、いくつかの決定的な違いがあります。
最も大きな違いは、現代の喪服が「特定の儀礼のために定められた礼服」であるのに対し、江戸時代の服装は「喪に服す気持ちを表すための普段着の延長」であったという点です。
現代では、葬儀に参列する際には、男女ともに黒のフォーマルウェアを着用するのが一般的であり、そのデザインや素材にも一定のルールがあります。
これは、社会的なマナーとして、統一された服装で故人への敬意と哀悼の意を表すという考え方が根底にあります。
一方、江戸時代には、先述のように身分による違いはありましたが、特に庶民の間では、普段着の中で最も地